息吹木の家の始まり

 

 
 
始まり

Our Story

息吹木の家の始まり

創業社長・志水康樹の歩みと、
家づくりにかけた想い。

Prologue

なぜ、息吹木の家は工務店になったのか

10年以上にわたって、先代社長が育てていたブログがありました。
そのブログの冒頭に、なぜ、工務店を始めようと思ったのか。が鮮明に記されてあります。
私たちの忘れてはいけない、コアなメッセージとして、この文章を新しいHPに形を整えて移行することとしました。

創業社長の想い、なんで建築やになろうと思ったのか——興味ある方は読んでみてください。

「志水が材料入れてくれるんか。ほんなら安心じゃな。」
友人のその一言に、小さな声で「うん……」としか言えなかった。
この瞬間が、私の人生を変えました。

Chapter 01

製材所の三男として生まれた、脳天気な少年

1958年(昭和33年)、私は志水家の三男としてこの世に生を受けました。三男といえば当然兄が2人。きっと「今度は女の子」と思っていたお袋や親父は、さぞやがっかりだったのではないかと思います(笑)。

当時の志水住建は「製材所」で、地松を挽いていました。でもそんなことはずいぶん後で知った話。当時の私は、家が何をやっているのかも知らず、ただただ脳天気に三男としての道を歩んでいたのです。

小学校の私は勉強が嫌いで、学校へはただひたすら友達と遊ぶために通っていました。母は「そんなに勉強が嫌いなら、将来は工員として工場で働かせよう」と真剣に思っていたそうです。通知票は5段階で、4とか5なんて数字はとてもこの世のものとは思えませんでした(汗)。

祖父は孫が4か5をもらってくるとお小遣いをくれたのですが、私がもらうのは「わるご(悪さをする)をした時のお灸」だけでした。今でも背中にされたお灸の熱さは覚えています(泣)。そんな私にも、変わる転機が来るのです。

Chapter 02

「負けん気」だけで、進学校へ。そして挫折。

中学時代、陸上部の優等生仲間と出会ったことが転機になります。2年生後半になると進学の話が出てきて、連中はみんな地域のトップ進学校を志望。「ヤバイ!このままでは親友達と離ればなれになってしまう!」この想いが、私を勉強に向けさせました。

「ぼく津山高校へ行く!」——突然の決意に一番驚いたのは、心配していた母でした。それからは一生懸命に勉強。3年の2学期には「もしかして……」と思うようになっていた先生も「志水、いけるぞ!自信を持ってやって来い」と言ってくれるまでになっていました。

「絶対にある」——自信を持って見に行った合格発表で、私の名前を探す。名前を探す。名前を探す……。

無い…… 無い……
親友は皆合格。
私はどうやって家まで帰ったのか、今でも思い出せません。

ある信頼できる方の勧めで、私立のS高校の特進クラスへ進むことになりました。「津山高校だけには絶対に負けん!」——その負けん気を燃料に、7時間授業を乗り越えた結果、関西の有名私立大学にすべて合格。やっと「がんばれば成果につながる」と思えた瞬間でした。

Chapter 03

旅行添乗員のアルバイトで学んだ、仕事の醍醐味

大学時代、友人の誘いで始めた旅行社の添乗員アルバイト。「旅行には行けるわ、お金はもらえるわ、こんなえーアルバイトはない!」と言われてほいほいと始めたのですが……。

修学旅行で300人の世話を2人でする。移動中には常に次の手配。今のように携帯電話もないから、どこかに着くたびに赤電話で次の段取り。これが長くかかると昼飯もろくに食べる時間がない。夜は最後のお客様が就寝されるまでご接待(大体午前2時頃まで)。朝は元気の良い生徒たちの起床時間はとっても早い。帰ってくる頃にはもうへとへと。

「最初のころはこんなバイト二度とやるものか!」と思っていた私なのですが、なぜ続けられたのか。それはお客様からとっても素晴らしい宝物をいただけたから。

「志水さんと一緒に旅行ができて本当によかった。またお願いしますね。」

一生懸命に人のお世話をし、その結果喜んでいただく——これこそがこの仕事の醍醐味じゃないか!大学を卒業したら旅行社に就職する、という決意はこうして固まりました。

Chapter 04

「お前の兄貴は製材所はやらんと言うとる」——父の肩が小さく見えた日

東京の旅行会社に就職し、住み慣れない東京で毎日を過ごしていた5月の終わり。父から突然「とにかく一度津山へ帰ってこい!」という電話がありました。

和室の仏壇の前に座り、父が口火を切りました。「お前の兄貴は製材所はやらんと言うとる。2番目も断られた。もうお前しかおらんのじゃ!」

普段は豪放磊落な親父が、このときは……
「肩が小さく見える」という比喩がありますが、まさにそんな感じでした。
大きな存在の親父が、何か頼りなく小さく見えた瞬間でした。

私は悩んで、悩んで、悩んで……決めました。好きで選んだ仕事。やれば未練が必ず残る。「今ならやめられる」——父は頭を下げに東京まで来ました。こうして私は旅行屋から材木屋になることになりました。

この時、学生時代から付き合っていた彼女に思い切り相談しました。それが今の女房です。あのまま東京にいたら、女房と呼べる関係になっていたかどうか……。人間の縁も分からないものです。

Chapter 05

「この木とあの木が、嫌じゃと言うとんじゃ」——木の世界の深さ

世間から見れば「ろくでなしのおぼっちゃまが行くところがなくて帰ってきた」状態です(汗)。何もわからない新入りがやることは決まっています。まずは現場から。

ある工務店の作事場に行ったとき、老大工さんが「志水君、この木はいけんわ」と言いました。「なんでもかんでも、いけんと言えばええと思ってからに」とちょっとムカッときた私が「なんでおえんのんですか?」と聞くと——

「この木自体がおえんと言うとんじゃあないんで。この木とあの木を梁としてつなぐんじゃろう?つながれる木同士が"嫌じゃ"と言うとんじゃ。わかるか?」
「分からんかったら、分からんでもえー。そんなことが分かるようになったら一人前じゃ。」

木には1本1本「癖」があって、必ず曲がったり反ったりします。2本の木をつなぐときにはその癖を見極め、お互いが「がちっと」結合するようにしなければならない。そうすることで長持ちする家ができあがるのです。木の世界は本当に深い——でも「木は本当に難しい」と言えるからこそ「木は本当におもしろい」のです。

Chapter 06

1995年、阪神淡路大震災——「神戸の家プロジェクト」と絶望

1995年1月、阪神淡路大震災が発生。多くの木造家屋が倒壊し、大手ハウスメーカーは「木造は危ない」という宣伝をあらゆるメディアを使って展開しました。比較的好調だった業績が一気に右肩下がりに。

業界の若手仲間から「木造住宅復権のために、困っている人達のために役立つことをみんなで考えよう!」という発案が出てきました。私たちはこれを「神戸の家プロジェクト」と名付け、被災者への材料格安提供とメディアへの発信を計画。各社が乗り気になり、神戸にも何度も足を運び着々と前に向かって進み始めました。

そして上棟日当日——業界の若手・重鎮が大挙して神戸に集結。マスコミ各社へも事前に連絡を入れ、数社の取材があるはず。もうそろそろ……もうそろそろ……。来るはずの取材が一向に来ません。

後から分かったのは、業界内部から「取材をやめろ、さもなければひどいことになる」という圧力がかかっていたということ。「一体誰が……」証拠があるわけではありません。

製品の善し悪しではなく単価を最優先する業界体質への嫌気。そして希望から絶望へ——。「何とかしなければ」という想いだけが、ひたすら募っていきました。

Chapter 07 — 転機

「ほんなら安心じゃな」——その言葉に「うん……」としか言えなかった日

ある工務店から、コスト削減のために「充分ではない材料」を使った見積もりを要求されました。背に腹は代えられません。渋々、絶対に使いたくないようなものを見積もりしました。

その後、運転手が休んでいたため私が代わりにその工務店の材料を納入しに行きました。作事場に行くと、見たような顔の人がいます。久々に会う友人でした。彼はその家のお施主さんだったのです。友人は私の顔を見るなり、すぐに近づいてきてこう言いました。

「志水が材料入れてくれるんか。ほんなら安心じゃな。」

…………………

「ウン……」小さな声でこれしか言えませんでした。

「このままじゃあいけない。私はお客様が喜ぶ仕事をしたかったはずだ!」
私はその想い一つで、工務店になることを決意しました。1998年のことでした。

Epilogue

その原点が、今も息吹木の家に流れている

材木やから工務店へ転身することは、予想していたより遙かに大変でした。「もうダメかな」と何度も思いました。その間、色々な人々にお世話になり、色々な人々と出会い、アドバイスをいただき、支えていただき、時には裏切られたこともありました。そんなこと全てが、今の私たちの財産となっております。

工務店となった私は、女房とともに昼となく夜となく、平日も休日もなく忙しく働き回っています。人は「そんなに休みなしで大変じゃろう」と心配してくれます。でも全然大変じゃないんです。

それは、材木やの時にはなかった充実感や満足感があるから。
「志水さんのところでお世話になってよかった。ありがとうございます。」
そのお言葉がいただけるからです。

建築に対する想いや真面目さ、そして探求心ではどんな老舗の工務店にも引けを取らないつもりです——この原点が、今も息吹木の家の家づくりに脈々と流れています。

Timeline

息吹木の家の歩み

 

1928年

志水住建として創業(製材業)

津山の木と向き合い続ける、家族の仕事がはじまる。

 

1995年

阪神淡路大震災

「神戸の家プロジェクト」を立ち上げるも頓挫。「何とかしなければ」という想いが募る。

 

1998年

志水住建 建築部を設立、工務店へ転身

「お客様が喜ぶ仕事をしたい」——その想い一つで材木屋から工務店へ。息吹木の家の原点。

 

2009年

息吹木の家株式会社として独立設立

「息吹く木のある家」——生きた素材への敬意を社名に込める。

 

現在

2代目・志水亮介へ、そして未来へ

創業の精神を受け継ぎ、自然素材×高性能×誠実な対話の家づくりを続ける。

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